今年も観てきました。
去年までは、世界では、こういう嘘くさい写真が流行なのかと思ったものですが、多少美術畑出自の写真を知ったので、ああ、これは美術系か、と妙に納得しました。
しかし、この美術畑と土着の(?)写真畑の垣根がなくなって混沌としたこの状態は、実のところどうなのでしょうか。相互に刺激しあって、ほんとうに豊かで面白いものが生まれているのでしょうか。
いや、もちろん、今回の作品もとても面白いものがありました。また、風刺的で社会に対するパワーを持ったものもありました。
しかし、大半の作品に共通する、レタッチばりばり、演出しまくりのこの「嘘くささ」にはいったいどういう意味があるのか。確信犯?にしても、もう飽きてしまいます。
数秒で陳腐化するこの嘘くささこそが、現代という時代を象徴するものなのでしょうか。
ここにはやはり、「撮る」と「作る」の、写真のいたずら神と美の女神の、土着写真と写真美術の差異が、厳然として存在するように思うのですが、どうなんでしょうか。
あるいは、常に過ぎ去ったものを追い求める者と、まだ形にない未来の造形に惹かれる者とのすれ違いという程度の差なのでしょうか。
やはり、ますます困惑の極みへとはまりこんでしまいそうです。
ニコンフォトコンテスト
まず、この樹の写真はすばらしいですね。
光が本当にきれいです。
フォトコンテストの話ですが、少し前にカメピが無くなるというので
いろいろな人から写真SNSを教えてもらっていた時に、
“500PX” というのを教えてもらって、覗きに行ったことがありました。
そこには、高性能デジタルカメラで撮影されたピントも露出も構図もすべて
完璧に写された”美しい写真”ばかりが並んでいて、
見ていてちょっと恐ろしさすら感じました。
Flickrの方も、デザイン変更以降、そういう”美しい写真”の数も
増えていった感もあるのですが、まだまだ愛すべき「下手くそな写真」も
多々載せられていて、何か見てても安心感があるんですね。
ニコンのコンテストというのは、今はどんな感じなのか、僕は最近
本当に写真界の情報を仕入れていないせいで、何も知らずにいる
のですが、にゃんさんがここで書かれている「嘘くささ」が大半、と
いう風に多くなっているのは、それもきっと今という時代の感覚の
縮図みたいなものなのだろうとも推測しています。
美術畑の写真、というのもはたしてどういう種類のものをにゃんさん
は書いてるんだろう?と、いま思っているんですが(演出写真っぽい
もののことかな?)、そういうのを言葉だけで伝えようとするのって、
難しいものですね。 :-(
何となく、僕もそういうことを思ったことがある人間なので、たぶん、
ああいうことを書いてるんだろうな?というニュアンスは解かるので
すが。:-)
演出写真も植田正治のような演出だったら、可愛いですけどね。
セバスチァン・サルガドのようなそこに在る厳しい現実をも「演出っぽ
く」して写して来ては、平和な国の平和な場所で大々的に発表して、
皆からちやほやされるああいう「胡散臭さ」も僕はどうか?と前々か
ら思っています。世界をそんなに自分色の美しいものにしていったい
どうするの?と言いたいです。
土着写真、万歳です。
美術出自の写真は、なんていうか、写真を素材&絵筆的に使うような感じでしょうか。下塗り的に使ってその上に編集ソフトでばんばん描いて行くようなイメージを持ってます。実際は違うのかもしれませんが、「写真」を素材的に扱うという感覚はあるのではないかと。
一方、土着写真は、多少手を加えることはあっても、もとの写真を素材にしてこねくりまわすことはしません。代わりに、何度でも何枚でもいつでもどこでも写真を撮り続けます。少しでも満足できるものを求めて永遠に撮り続ける、撮り歩き続ける。そう、まさに足で撮ります。愚直に靴を擦り減らし、雨の日も風の日も撮り続けます。そんな写真を土着写真と勝手に命名(今、しました。=^_^;=)。
ま、極端に分けましたけど、意外とどっちかに別れちゃうんじゃないでしょうか。
中道を行っちゃうと、それはもう絵葉書的「製品」の部類になるかと。
ネットの画像用とかで流通するような「製品」の世界です。
いわゆる、最大多数にウケる「きれいな」写真というやつ。
これはこれで、ちゃんと値段がついて売買されるわけですから、立派な商品価値があると思います。
美術系の写真作品も評価されると結構な価格で取引されますよね。
さて、土着写真は…=^_^;=
でも、そこに何ものにも代えがたい価値があると考えるのは私だけでしょうか…
「美術写真」ってやつ、うちの愚妹(油彩画を書く)に言わせると、「絵でいいじゃん」「絵で何がいけないんだろう」って思うみたいですね。
土着写真はそのときのパッションが感じられるけど、美術写真は意図がわからなくてちょっと苦手ですね。